日本武尊(倭建命)は、父である神皇十二代 景行天皇から、当時東北一帯を支配していた蝦夷を征服するよう命を受け、東国に向かいました。伊具の地に着くと、古来の聖地であった大森山の山懐に祭場を設け、当地に初めて、大和朝廷の祖神である邇爾杵尊をお祀りした事が始まりだと伝えられております。このことにより、歴史的にも伊具郡が大和朝廷に帰属したことが分かります。
日本武尊は故郷に帰る途中お亡くなりになられ、それを知った父である景行天皇は息子の死と今までの功績を偲んで、遣いの者を東国へ向かわせました。その際、邇爾杵尊をお祀りしたこの地に社殿を建て日本武尊をも併せてお祀りしました。
熱日髙彦神社は国幣社で、陸奥国司から幣帛が奉じられた神社です。
平安時代の延長五年(927年)に完成した“延喜式神名帳”には、陸奥国百座の内、伊具郡に国幣社が2座あり、その内の1社が熱日髙彦神社となっております。陸奥国司から、時の帝醍醐天皇より如意峰で鋳させた神鏡を賜ったと伝えられております。
江戸時代、当社は伊具郡総社とされていました。
総社とは、その区域全体の神社のご祭神を併せ祀った神社であり、伊具郡全体の神社を拝めることができると定められていたことを意味します。当時、区域を管理する官衙(役所)はそれぞれの与えられた地域に総社を作っていたようです。
当神社から西に約4キロのところに、天平時代にさかのぼる伊具郡衙とされる郡山があります。江戸時代に代官所のあった金津は、北に約3キロです。
春の大祭には、神輿が渡御され、藩から、警護の足軽が4人派遣されたとあります。神輿も大谷の香取神社、小斎の鹿島神社が当神社に集まり、3基が石川口を練り歩いたと伝えられており、現在は、香取神社がお供しております。
明治5年、伊具郡(丸森町、角田市)で唯一の郷社に列せられ、例祭時には、郡庁から献幣使「(神様にお供えする特別な金品―幣帛料―を持った役人(=町村長などが、装束を着けて当った)」が参向し、お祭りは盛大に行われました。
戦争の時代になると、郡内の出征兵士の武運長久祈願をはじめ、様々なお祭りも当神社で行われました。
大東亜戦争終戦までの社殿内は、諸祈願に関し、また復員軍人などの奉額・奉納品でいっぱいになりました。
終戦後、時代の変遷で三町歩余りの水田をはじめ農地をほとんど失い、経済基盤が失われました。
そのことにより神社信仰の弱体化が図られる一方、宮司の戦死と重なって、神社の経済が著しく窮迫いたしました。
神域の樹木は杉・樅・桧・榧・樫などですが、戦争末期の供木に端を発した伐採の流れの中で、杉や樅の数百年の御神木を売却して神社経済の窮地をしのいだ一時期がありました。
そのことで神域は、古木が社殿と参道沿いにわずかに残るだけになってしまいました。心ある氏子たちが、財源が無ければ氏子の負担によって経営する事を呼びかけ維持費を献じてもらう形となり、神域の尊厳が守られ、今日に至っております。
独自の神事である湯たて神事は、この時期に中止されたままで、現在再興を図っているところであります。