熱日髙彦神社のご神体はタマノキで出来ていると伝えられ、氏子はタマノキを薪や炭にしません。 またご神体のお姿が、兵児帯をしているとされ、子どもたちの着物には、兵児帯をつけないという慣わしがあります。
健やかで賢い子供を授かりたいと多くの方からご参拝いただいております。長く子宝を望んでいた方の願いが叶った、という話は数多くあります。安産祈願の「お枕」の習わし(紅白のお枕を借りて、男子が生まれたら白、女子は紅を足して返す)が伝わっております。
取り子とは、弱く生まれた子、兄弟が弱くこの子だけでも丈夫にというときに、 神様の子ども(養子)として取り上げてもらうことを言います。 ご祭神が健やかで、お姿が麗しく、聡く、力が強くあられたことから、 その力にあやかるため、取り子がとても多くありました。
特に亘理、相馬などからの信仰があったようです。
古くから鎮火(火伏せ)の神様としての信仰があります。日本武命が、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と火打石で火難を逃れた故事によるもので、丙午(ひのえうま)の年や、初午が早い年には、湯たて神事(煮え立ったお湯をかぶる神事)や獅子舞が奉奏されました。
「熱日高彦」は、大和朝廷系のお名前です。
「天津日髙比古番能邇邇芸命(古事記)」というご祭神名と関わるものかもしれませんが、伊具郡の群衙が真西より少し北に掛かっていますので、関わりがあるというのが定説でした。たしかに彼岸の朝、郡山の所に立つと、ちょうど神社の上から日が昇ります。
日が高く昇っていく姿に、国の万歳掛けて栄える事を重ねて付けられた名前ともとれます。
伊具盆地の東に当神社があり、西には斗蔵(神社、寺)があり、当神社は西向きに建っていた可能性があります。斗蔵山神社は東向きに建っており、いずれも、中央にある郡衙のほうを向いていたことになります。ただ、斗蔵山神社は、日が沈むには少々北に位置します。
現在の社地に、小皿やカワラケ状を中心とした、祭器と思われる土師器が出土します。
またこの谷 (鳥内囲)には須恵の釜がありました。
神社のある西から東に上る谷の部分は「鳥内」(囲い)になっています。 境内という意味の「鳥居内」が、長い間に詰まってしまったものです。
かつてこの谷を登る道を参道としていたものと思われます。
谷の入り口に寺があったといわれており、そこにある目黒家は称念寺を勧進した関東武士で、当神社との関係を裏付けるものです。寺があったとされる辺りと、神社の中間辺りに、禰宜屋敷といわれていたところがあり、かつて神主が住んでいた屋敷です。
現在、神社の南に伸びる三百メートルの参道は、かつて山家家に続いていました。かなりの間、当神社が山家家の庇護のもとにあったのです。江戸時代の地図には、平地の参道の両脇にも、石段の脇にあるような古木が立っています。現在では参道に残りますが、500年以上〜800年を経ていると推測されます。当時は日光の杉並木のようなたたずまいだったと思われます。
一の鳥居の五十メートル南に、皇子塚と呼ぶ塚がありました。鳥居から三百メートルほど東に大和橋があり、鳥内囲いの南側は日髙下囲いになっています。いずれもご祭神に関わるお話があります。